Statement

 

制作と研究の見取り図を、“揺動”の三分類として以下に示す。

(1)揺らす

20世紀を代表するメディアである映画は、人間の“見ること”にいかなる影響を与えてきたのか。自明視されている制度や慣習を揺さぶることで映画の盲域を探り出し、これまで記録されて来なかったイメージ、あるいは記録不可能なイメージの存在に意識を向ける。
具体的には、映画や写真が“病理としての郊外”観の形成に加担してきたことを批判する展覧会企画「floating view “郊外”からうまれるアート」(2011)およびウェブ連載『Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論』(2013)、カメラを持ち込むことが不可能な場所であるウェブ空間を映画がいかに表象できるのかを問うた短編映画『落ちた影/Drop Shadow』(2015)などが挙げられる。

(2)揺れる

手持ちカメラによる手ぶれ映像をはじめとした“揺れる”イメージに着目し、映画史を「揺動メディア」としての映画史として再構成する。
実験映画やビデオアート、70年代の風景映画論争を引き継ぎつつ、揺動を組み込んだ新ドキュメンタリー理論〈場所映画〉を構築し、従来の映画が見落としてきた場所のイメージに触れることを目指す。その試みは「映画による場所論」と題したシリーズの中で実践され、これまでに、小説家・長塚節が記した茨城の風景を百年後の風景と重ね合わせる長編映画『土瀝青 asphalt』(2013)、沖縄戦の米軍進行ルートの現在をトレースする中編映画『TRAILer』(2016)などを制作・公開している。

(3)揺らぐ

人為的か否かを問わず、従来の制度や慣習が揺らげば、人間は依って立つべき大地を失い、時には生死にも関わる危険な状態に追いやられる。
足場なき場所でいかに安定をつくりだし、生命を維持するか。それは揺動メディアとしての映画制作の要であるのみならず、物語上の主題ともしてきたものである。例えば、秋葉原の通り魔事件の加害者が自分であったかもしれないという不安に苛まれる長編映画『夢ばかり、眠りはない』(2010)、震災と原発事故を機に根拠なき噂やデマに汚染された“空気”を可視化する長編映画『アトモスフィア』(2011)などが挙げられる。また現在は、CG・VFXの全面化以後のハリウッド映画に散見される「復路の神話」のモチーフに関するリサーチを進めている。