清水増夫氏インタビュー「文化のための映画制作支援──鳥取から、地域と映画の理想的関係を考える」
文化のための映画制作支援──鳥取から、地域と映画の理想的関係を考える
清水増夫氏(鳥取コミュニティシネマ代表)インタビュー
日時:2017年2月28日(火)
収録場所:鳥取大学地域学部サテライトキャンパスSAKAE401
聞き手:佐々木友輔、樽本光代
協力:村瀬謙介(SAKAE401)
清水増夫さんは、一九七〇年に鳥取ATG準備会(アートシアターギルドの配給映画を鳥取で上映することを目的とした団体)を立ち上げて以来、数多くの上映活動に携わってこられました。現在は鳥取コミュニティシネマ(二〇一四年設立)の代表として、ミニミニ30人シアターやまちなか名画シアターといった上映会を企画しておられます。その多彩な活動については、樽本光代さんによる鳥取大学大学院地域学研究科の修士論文『なぜ地域で映画を上映するのか─鳥取市における自主上映活動の持つ意義─』(未公刊、二〇一七年)で詳しく調査がおこなわれています。
今回のインタビューでは、清水さんが上映活動と並行して尽力されてきたロケ支援活動や、鳥取で制作された映画作品のリサーチ活動を中心としてお話を伺いました。また、二〇〇〇年代のフィルムコミッション設立ブームを背景として注目を浴びるようになった、いわゆる「地域映画」についても、その評価やご意見を伺っています。長時間のインタビューに応じてくださった清水さん、そして聞き手としてインタビューにご協力いただいた樽本さんに、心から感謝します。(佐々木)
『砂の器』のエキストラ体験
──まずは、フィルムコミッションの立ち上げ以前に、映画制作の現場に関わった経験からお話しいただけますか。
清水:最初に映画制作にタッチしたのは、三二歳くらいの頃、加藤剛や森田健作が出演している『砂の器』(野村芳太郎、一九七四年)にエキストラで出た。四〇年ぐらい前だ。『砂の器』は松竹で、そのころ松竹の配給作品をかけていた映画館・鳥取名画座の能勢支配人と仲よしだった。「清水さん、今度『砂の器』が来るから二〜三人で鳥取駅のロケに出てくれんか」と誘われ、「いいですよ」と答えた。アートシネマ鳥取グループ(清水氏が一九七〇年に設立した自主上映団体。一九八〇年四月に別団体と合流して「鳥取映画村」に変化)のスタッフの松田君と二人で、エキストラとして出た。
ロケ地は鳥取駅のプラットホーム。橋本忍と山田洋次がシナリオを書いている。それを読むと、丹羽哲郎が東京から島根県の亀嵩に列車で行く途中、鳥取駅で新聞を買うところがある。普通の列車を「特急まつかぜ」につくり変え、乗客が降りてから撮影を始めた。わたしらは観光客役で、ロケは無事済んだ。それがロケに出た初め。丹羽哲郎は、列車が来るまで一人で砂丘そばを食っていた。その後、能勢支配人に野村監督と話をさせてくれと頼んで、清張映画の話をさせてもらった。
それから後は、映画制作関係は特にはなかった。フィルムコミッションを始める準備期間が二年ほどあった。その間に来たのが『リアリズムの宿』(山下敦弘、二〇〇四年)。鳥取映画村のほうにロケ依頼の連絡が入ってきて、「まだフィルムコミッションはつくっていないが、手助けをしますよ」と了承した。製作の人が湖山の近くの民家を借りて、そこから出発だった。「できることはしますよ」と言って、情報提供をしたり、それから編集用に一六ミリの映写機を一ヶ月ほど貸してあげたり、そういう手助けをした。コミッション立ち上げの一年前には『妖怪大戦争』(三池崇史、二〇〇五年)の撮影があって、鳥取県がロケ支援をおこなった。そこでもいろいろな会議に出たり、境港市に行ったり、間接的に手助けをした。
幻の映画『砂丘に死す』
清水:映画制作といえば、もう一つある。一九七三年六月。アートシネマ鳥取グループ二周年を記念して、八ミリ映画を製作しよう、ということになって、みんなでけっこういい八ミリ撮影機を買った。それで一本映画を撮ろうということになり、わたしがシナリオを書いた。『砂丘に死す』という難しげなタイトルで、都会の疲れた男が砂丘に来て突然倒れる。倒れたらいつの間にか砂漠に移動していて、最後は気がついたらまた砂丘に帰ってくる、というストーリーだ。予告編をつくった。うちはいつも上映会をやっているので、県立博物館での映画上映の前に予告編を流した。「史上最低の予算で!」なんて流して。でも主演の男がある事情で親元に帰ってしまったので、結局その映画はできなかった。
二〇〇四年十月。今度は鳥取映画村のときだ。県がプロに委託して、半年間プロに教わって、三分以内の映画を撮って上映するという映画講座で、正式名称は「平成一六年度鳥取県公募補助事業・地域映像コンテンツ制作人材養成研修事業」というものだ。「おっ、なんていいことするだ」と思って、わたしも年を違えて二回参加した。会費が一万円ぐらい要ったが、これは良かった。研修は一ヶ月に一遍ぐらいあった。撮影をして、編集をして、ナレーションを入れたり、音楽を入れたり、全部教えてくれて、最後は全員の作品のDVDをつくってくれた。撮影は、テレビカメラマンが使っているのと一緒の一六ミリ撮影機を一人に一台貸してくれ、わたしは仁風閣の歴史みたいなものを撮ろうと思って。県庁の五階のトイレから仁風閣がよく見えるので、そこから撮った。このような研修は、またやってほしいな。
だけど良くないのは、あまりにも時間がなくて、習ったことをすぐ忘れること。編集に多くの時間かかってね。つくるのは大変なんで、覚えるよりも、早くつくろう、早くつくろうと焦り、じっくりできなかった。そんなことで、せっかくプロの人に習っても、その後は一作品もつくっていない。
映画を習いたい人、つくりたい人は、やはり、いるんじゃないか思った。そういう取り組みは、行政がやらないとできないと思う。
──最近だと、ことるり舎が浜村温泉湯けむり映画塾というワークショップを毎年やっていますね。
清水:わたしの知り合いに、小谷承靖監督とか、田中一成撮影監督がいるので、うちでも、映画講座みたいなものをやろうと思ったらできるかなと思っていた。田中一成さんは鳥取市吉岡の出身なんですが、もう百本ぐらい映画を撮っている。『恋谷橋』(後藤幸一、二〇一一年)の撮影監督をやっていて、『父の暦』の映画化プロジェクト(後述)でも撮影として入ってもらった。都会で映画制作を習った人が来て撮るというのではなくて、鳥取にいる人に撮影のやり方とかを教えるような講座があってもいいかなと思って。
NPO法人とっとりフィルムコミッションの立ち上げ
──NPO法人とっとりフィルムコミッション(二〇〇五年〜二〇一四年)を立ち上げようと思ったきっかけとして、ご自身がロケなどに参加した経験も大きかったのでしょうか。
清水:そうですね、三〇何年も自主上映活動だけやって来た。そうしたら、やはり、つくるほうにも参加したいなという思いが出てきて、つくるほうに参加できるのは、やはりロケ支援かなと思って。ロケ支援も映画制作の一部ですからね。
フィルムコミッション立ち上げの二年前に国文祭(第17回 国民文化祭・とっとり2002)があって、西河克己監督、岡本喜八監督、小谷承靖監督の鳥取出身の監督が三人と、それから鳥取映画村のわたし、地元の人とかがパネラーで、フォーラムをした。そのときに、わたしは「鳥取映画村の代表だけども、鳥取にフィルムコミッションをつくりたい、できたら顧問になってもらえるでしょうか」と発言した。そうしたら三監督は、「ああ、いいことだな、つくってほしい」と言った。実際にフィルムコミッションができたとき、すぐ顧問になってくれた。
そのフォーラムの中で、「行政がフィルムコミッションを立ち上げて、民間が支援するというのが、一番理想的だ」と言った。その後、行政からの反応は、うんもすんもなかったな。それで結局、「行政がやらないのだったらNPO法人を立ち上げて自分でやろう」と思った。フィルムコミッションをやろうと思ったら、いろんなところにいろんなことを頼みに行かなくてはならない。撮影許可を得るためには、やはり、信用がないといけない。ということで、NPO法人を立ち上げた。ただの民間だったら、どこの馬の骨か分からん者に河川敷で撮影はさせんと思うのでね。
──そのとき、清水さんは県庁職員ですよね。
清水:職員だった。フィルムコミッションの設立許可は三ヶ月かかるって言われていたから、二〇〇五年の一月八日に発足総会をして、三月三一日に退職して、四月一日に立ち上げて、理事長に就任した。小谷承靖監督に、「清水さん、すごく段取りよく、上手にやっとりますな」と言われた。
フィルムコミッション立ち上げの後、ロケ誘致のための会議など、いろんなところに行ったけども、映画上映団体が発起団体になっているフィルムコミッションは鳥取だけだった。他県はみんな行政の観光関係課が設置していた。よそは観光が目的だけども、うちは文化だ、と言ったのですよ。別に観光は関係ない、うちは映像文化のためにフィルムコミッションを立ち上げたのだと。
フィルムコミッションは、地域ごとに市が設置するのが一番いいと思う。全国で見ると県もあるけども、市が多い。県になると広すぎる。とにかく鳥取県はフィルムコミッションが一つしかなかったもので、境港市のロケなんかのときは大変だったよ。泊まり込みで行かないといけないものだから。
初めてのロケ支援──『ハンセン病 今を生きる』
清水:うちが最初に映画ロケを引き受けたのは『ハンセン病 今を生きる』(原田隆司、二〇〇五年)というドキュメンタリー。境港、大山での撮影だった。ハンセン病で十代の頃から収容所に入れられた境港出身の人が主人公。今は元気で、撮影にスーツを着て奥さんと一緒にロケに参加されていた。『おしん』の小林綾子さんが語り部、ガイド役でずっとついて回った。おもしろいのは、この映画の製作者の兄弟が、大阪で共和教育映画社の社長で、うちは偶然そこから上映会のフィルムを借りていた。そういう縁で製作者の方と仲よしになった。
境港と大山のロケは、本当に大変だった。境港は丁度、うちの理事の女性が一人いて、その人が案内してくれた。だが、大山は誰もいなくて、結局、わたしが案内することになった。大山まきばみるくの里や小学校とか米子の駅とか、ロケするところは、全部の場所に事前にロケ支援承認をとるなど、結構大変なんですよ。
まきばみるくの里は日曜日だったので、すごい人だった。撮影中、音楽が流れていた。ロケ隊の人が「清水さん、あの音楽がうるさいので、止めてもらえないだろうか」と言われた。けど、観光客が沢山来ているのに、そんなことができるかなあ、商売なのに悪いという感じがして、そのままにして撮影してもらった、今思えば、止めてもらっても良かったなと思うけど、初めてだからわからなかったのだ。今だったら、「すいません、ちょっと十分ほど音楽を止とめてもらえんかな」と言うけども、当時は初めてだから、遠慮したのだろう。
地道な誘致活動
──とっとりフィルムコミッションの活動期間には、おもしろい作品のロケがたくさん鳥取に来ていますね。どのような誘致活動をなさったんですか?
清水:全国の映画関係の人と直に話ができる機会としては、JFC全国ロケ地フェアっていうのがあって、なるべくそういうのに参加してプロデューサーや監督と話をしたり、それからロケーションジャパンというロケの全国組織があって、総会の夜の懇親会でゲストの監督さんなどに話しかけたりしたね。
──かなり地道な誘致活動をなさっていたんですね。ロケ地フェアへの参加によって、具体的にどういう反応がありましたか?
清水:一度、アメリカの監督とプロデューサーとカメラマンの三人が鳥取に来たんですよ。小さい映画をつくるプロダクションと思うけども。日本語をよく喋る人が一人いて、映画を田舎の一軒家で撮りたいけども、良いとこないかって、全国ロケ地フェアで話しかけてきた。わたしが対応して、若桜町の諸鹿っていうとこが気に入っていたので、「鳥取に来たら案内しますよ」、と写真を見せた。すると、「行きたい」と言っていたが、絶対、来ないと思った。ロケ地フェアから帰って、しばらくして、「実際に行きたいです」というメールがきた。それで、若桜町の諸鹿や智頭町の板井原、さらに日本の原風景が残っている場所など、二日ほど案内した。そういうことで、積極的に声をかけるとロケ隊がやってくるのだ。今の鳥取県フィルムコミッションはそこまではやっていないのではないか。相手から連絡が来るのを待っているだけではないかと思う。
──二〇一四年にNPO法人とっとりフィルムコミッションが解散して、その業務が県に移管されてからは、ぱったり映画のロケがなくなってしまいました。
清水:さあさあ、映画もドラマも三年ない。やはり、もう少し声かけるっていうか、待っているだけではいけない。待つのではなくて発信しなくては。
撮影監督の田中一成さんとは東京や鳥取で酒を飲んだ仲だから、ツーカーで仲よしになっているし、ふだんでも話をする。そんなことで、『恋谷橋』のとき、やはり、声をかけてくれた。それから、倉吉出身の吉田一夫監督からも、『遠くへ行きたい』(読売テレビ、一九七〇年〜)の声がかかって県内を撮影した。当時はわたしがフィルムコミッションの理事長をしていたから、そういうこともできたけど、今、鳥取県は、観光連盟へフィルムコミッションの事務を委託している。やはり、映画が好きな人がやっているのではないだろうから、積極的な誘致ができないのでは。もったいない話だ。
『るろうに剣心』の仁風閣ロケ
清水:調べてみたら、とっとりフィルムコミッションの九年間で、映画のロケは一一本やっている。一番大規模だったのが『るろうに剣心』(大友啓史、二〇一二年)。仁風閣を一週間貸し切った。こんな大きなロケ支援は、NPO法人のとっとりフィルムコミッションだけでは絶対できないと思ったので、まず、製作会社や配給会社の偉い人を市長に会わせたいと思って、市のほうに話をして、マスコミにも来てもらうようにしたんですよ。これが良かったな。市長が乗ってきてね、「鳥取市はできる限りのことをします」って言ってくれた。市の建物は全部無料になったね。やはり違う、なにせ仁風閣の撮影は、一週間貸し切りで、休みを含めたら一ヶ月半ぐらいかかった。仁風閣ロケで、こういうことは普通ない。たまたま融通のきく人が館長だった。前だったら絶対ロケを断られていた。
──これまでも仁風閣でロケをしたいという依頼はたくさんあったんですか?
清水:はい、いっぱいあったけども、「現状のままだったら撮影してもいいけど、物を動かしたり、セットは駄目」っていうことだった。だけど新しい館長が来て、「元通りにしてもらったら全面的に動かして良いですよ、市や偉い人にはわたしが説得します」と言ってくれた。それも運が良かったかもわからない。
──ロケ地フェアへの参加のほかに、誘致のためにおこなった工夫をお聞かせください。
清水:初め、「とっとりロケ地マップ」をつくった。ただ口で喋っていたのでは駄目なので、こういうのをつくって売り込まないといけない、と思って。次に、マップだけでは、ロケが呼べないと思い、鳥取には、こういう良いとこがあるから来てください、という冊子「とっとりロケーションガイド~日本の原風景、鳥取」を作成した。鳥取県中走り回り、ロケに良さそうな場所を探して、東から西まで、泊まり込みで、カメラを持って。全部自分らが撮った写真を掲載しましたからね。
──相当な労力がかかりますよね。資金面のみならず、実際に行って撮ってという。
清水:県がこういうマップをつくるときには、有名なカメラマンに撮らせる。高いお金を支払って。でも、やはり、自分が撮った写真ではないと、製作会社に説明できない。どういうとこですかって聞かれたときに「いや、自分は行っていませんのでわかりません」とは言えないので。
──写真の背後にいろんな情報がありますもんね。
清水:そうそう。それでやっぱり自分で撮りに行こうと思って、二人一組で。
『Free!』のシナハン秘話
──もう一つ、話題になった作品として、京都アニメーション製作のアニメ『Free!』(二〇一三年)があります。この作品の舞台モデルのひとつとして岩美町が選ばれ、ロケハンがおこなわれたということですが、そこに清水さんはどのように関わられたのでしょうか。
清水:最初は『Free!』というタイトルじゃなくて、原題の『ハイ☆スピード』で話が来た。「テレビアニメになるかならんかわからないですけど、まずはシナリオハンティングさせてもらえないか」ということで、二日間、岩美の辺を案内することになった。
向こうが岩美町のこういうとこを見たいと言ってきたが、それだけではおもしろくないので、わたしが絶対、推薦したいところも併せて案内した。そこは、網代港の隧道だ。普通の車や人が通る珍しい隧道がある。前のロケのときにタクシーの運転手に「どこか良いとこはあるか」と聞いて案内してもらった。そこが良かったものだから、その後、女性の写真集の撮影など、何遍もロケに行った。『Free!』のロケ隊も、気にいったようで、そうしたら、この隧道のシーンがテレビに映った。
シナリオハンティング一日目は雨が降っていて、傘差して案内した。わたしの自慢のとこは、田後の墓地で、ここは何遍もテレビに出ているとても風景のいいところ。普通は村の下のほうから上がっていくのだけども、このときは田後の上のほうから、横に行く道があって、そこから墓地を案内した。
谷口ジローさんの漫画『父の暦』(一九九四年)の中にこういうとこが出てきますよ。海と港と、それから集落とが同時に見える墓のある場所、その場所がどこにあるのか、ずっと探して歩いた。谷口ジローさんのお父さんが生まれた兵庫県の港があって、そこから網代海岸まで探したが、当てはまる場所はここしかなかった。谷口ジローさんも、漫画を書く前にここを歩いたと噂に聞いていた。まさか『Free!』でもここがロケの場所になるとは思わなかった。
──最初に清水さんがお薦めの場所を案内して、その後のシナハンはどのように進んでいったのでしょうか。
清水:わたしは二日間案内した。その後は、京都アニメーションがいろんなことを質問してきて、それに答えるなどの情報提供をした。岩美町観光協会が岩美駅の横にあって、自転車を貸してくれるので、あそこで何遍も自転車を借りたと言っていた。車ではなく、電動自転車で、何日もかけて走り回ったって。
それで、京都アニメーションがそのときの恩義を感じ、岩美町観光協会が『Free!』のグッズを売りたいという話を持ちかけたときに、「グッズ販売はとっとりフィルムコミッションがやられると思います」と言われた。うちはすぐ「いやいや、岩美町観光協会さんに販売を了解してあげてください」と連絡した。
──とても義理堅い会社なんですね。
清水:ああ、とっとりフィルムコミッションで売ればよかった思う(笑)。よう売れてるだろうに。田後の辺に自動車で行って、ばあっと売れば。
──『Free!』グッズの自動車販売。斬新ですね(笑)
清水:テレビ放送のときにタイトルが変わった。あれっと思った、『Free!』って初めて聞いたので。いや、びっくりした。まさかここまで有名になると思わなかったから。
その前までは、岩美町にもフィルムコミッションの賛助会員に入ってもらっていた。賛助会員は年間一万円だ。町長から、あんまりロケが来ないので賛助会員をやめたいって言ってきた。わたしが、「町長さん、もうちょっと待ってくださいよ、絶対にヒットする作品が出てきますから」って言って退会は止めさせた。実際ヒットし、本当に有名になったもんな。
ロケ隊のマナー
清水:結局、九年間で一〇九本の作品に関わった。映画、ドラマ、CM、ミュージックビデオ、紙媒体の雑誌とか写真集とかグラビアとかね、いろいろ。ロケ隊は良い人ばかりではなかった。中には本当に上から目線みたいな態度が悪いのがいて、よく喧嘩した。「もう来んな」「もう来るか」って。本当にもう頭にきたことがいっぱいあった。ロケ隊に頼まれてエキストラを探したら、「いやもういいです、日本海テレビに頼みましたから」。こんなことが何遍もあってね。「秘密の○○SHOW」という番組で、今も見る気がしないので、見ていない。
テレビドラマのロケ隊の話だが、ある観光協会の会長さんの家を提供したので、サインをお願いした。また、うちはいつも「とっとりフィルムコミッションさんへ」と、色紙を渡してサインを書いてもらうことにしていた。どちらも、「後で書いてもらいます」って言って、全然書かずに帰った。色紙もマジックも返さずに東京へ持って帰った。うちだけじゃなく、お世話になっている人のとこにもサインを書いてもらうはずだったから、何遍もメールで催促したが、書いてもらえず、とられっ放し。そんなことがあると、もう次からロケに協力してくれない。
白兎海岸で撮影があったとき、ロケの前に来たらゴミが溜まっていて、これでは撮影ができないと思って観光協会に相談した。そしたら、白兎の住民の方々のほうできれいに掃除をしてくれた。それがあったものだから、ロケ隊に、折角きれいにしてもらったのだから、酒二本ぐらい持っていったらどうか、と言ったら、「はい、わかりました」と納得した。が、結局持って行かなかった。何日かしてから白兎海岸の辺に行くと、白兎の人が来て、「ロケ隊の態度が悪かった」と言っていた。
──清水さんがそういう悪評判を聞かなければならなくなるんですね。地元の人からしたら、清水さんしか伝える相手がいないから。
清水:地元からしたら、そうだね。もう黒丸書いて、「ここの会社の依頼は、もうロケの支援はしないということにしない」ということになる。
──ブラックリスト入りですね。
清水:うん、ブラックリスト。そんな製作会社がたくさんある。なぜか、映像の製作会社の寿命は短く、新しい会社が次々生まれている。
コミッションのもう一つの仕事──『死にゆく妻との旅路』
清水:鳥取でまだ上映してないですけど、三浦友和主演で、鳥取砂丘が舞台の『死にゆく妻との旅路』(塙幸成、二〇一一年)という映画がある。三浦友和が来るというので、フィルムコミッションのスタッフや会員を見物させようと思ったんです。うちは会員制だから、せっかく会員に入ってもらっているから。ロケ隊に頼んだら、「深刻な映画だから、撮影現場であまり騒がれたら困る」と断ってきた。
その前の年に、第一一回とっとり映画祭・ロケ地映画「絶唱」フェスティバルというのをやった。『絶唱』というのは西河克己監督、山口百恵主演で、三浦友和も出ている。そのときに、三浦友和さんのビデオレターを披露したのだ。フェスティバルのゲストで呼んだ萩原憲治さん(『絶唱』の撮影監督)は、三浦友和さんと仲がよくて、それで、萩原さんを通じてビデオレターをもらった。
その件もあって、『死にゆく妻との旅路』の撮影側に、「ロケの見物はやめますけども、わたしらは三浦友和さんに世話になっているから、ロケが済んでから、三浦友和さんとうちのスタッフとの話し合いの時間を持ってくれ」と頼んだ。そしたらOKだった。ロケが済んでから三浦さんを囲んで、うちのスタッフとしばしの懇談をやった。
本来はどのロケでもそういうふうにやればいいと思うのだが、普通はやらないからね。監督も俳優もロケが済んだら、速やかに退散だから。本当はどこでも懇親みたいなことをしてもらったらよいと思うけどな。
──ロケに協力してくれているスタッフや会員の労をねぎらって、その辺りの交渉をおこなうのもコミッションの重要な仕事ということですね。
清水:そうですね。ふだんえらい目しとるから、たまには楽しいこともスタッフにさせないといけないと思ってね。
──映画関係者との交流の時間を設けることで、また次のつながりもできていきそうです。
清水:そうです。だから、トップの者はそういうことを考えねばいけないが、今はどこもトップが動かないから、交流などゼロだ。ただロケが済んだらいい、終わったらいい、と思っている。ものを決めることについて、やるかやらないかとなったときに、県や市だったらせめて課長や部長に相談しないといけない。NPO法人でやって良かったことは、そういう判断を、その場で、すぐ決めることができることだ。県庁は午後五時になったらもう人がいないが、うちは二四時間、携帯電話で受けていた。
──そうなると、やっぱりとっとりフィルムコミッションの解散は残念です。
清水:いやいや、県へのロケの業務移管はわたしが県へ頼んだのです。九年間、映画上映とロケ地支援の二本の柱をやっていたでしょう。時々、日にちが一緒になるときがあるのですよ。そうしたら少ない人数を分けて両方をやらないといけない。もう荷が重くなってきて、これはもうできないと思って。
──特にロケ支援は、自分たちの都合ではなく、相手の都合で日程が決まってしまいますしね。
清水:そうそう。それで、やっぱり自分たちの上映企画がやりにくくなった。ということで、ちょっと荷が重たいなと思って、県や市にロケ支援の移管を頼んだ。とても引き継げんという声もあったが、県の課長が「清水さんらは、えらい目をしてやっている」と言って、移管を進めてくれた。
──フィルムコミッションが県に移ってからも、清水さんに個人的に相談があったりはするんですか?
清水:ああ、それはあります。鳥取県フィルムコミッションの職員からも、よくエキストラについての相談がある。顧問じゃないけども、どうしたらいいか、という相談はよく受けます。
鳥取映画史・入門編──「TOTTORI映画ロケ発掘」について
──続いて、清水さんの目から見た鳥取の映画史について伺いたいと思います。というのも、清水さんはロケ支援や映画上映活動と並行して、鳥取で撮影がおこなわれた映画を調査して「TOTTORI映画ロケ発掘」というデータベースをまとめる作業も続けておられます。この試みは資料として貴重なだけではなく、読み物としてもすごくおもしろくて、まさに鳥取映画史とでも言うべき内容になっていると感じました。そこで今回は、「TOTTORI映画ロケ発掘」を始めた経緯や、これから鳥取の映画を見ていこうという人のために、鳥取映画史・入門編となるようなお話を伺えたらと思います。
清水:とっとりフィルムコミッション以前に、鳥取映画村のホームページを立ち上げていて、そのころから本や新聞なんかを調べて、鳥取ロケ作品の一覧をつくっていた。それに少しづつ足していった。一行ずつぐらいの一覧表はつくったけども、内容をもうちょっと詳しくやろうと思ったのと、山陰放送から「鳥取ロケ地めぐり」というタイトルでやってくれと依頼が来て、三年ぐらい毎週木曜日にラジオで喋った。「今日は何の作品で、どういう作品です」とか、「どういうとこでロケがありました」とか、そういうのを三年間やった。そのときの資料がいっぱいあるから、それを使ってFacebookに「TOTTORI映画ロケ発掘」を載せるようになったのです。やってみたら、映画が八五作品あった。
──ホームページの存在を知って、山陰放送が企画を持ちかけてきたんですか?
清水:いや、当時のフィルムコミッションの理事に植田英樹君がいて、彼に声をかけられた。アナウンサーの女の人と彼とが司会をやっているラジオ番組があって、それのワンコーナーの「鳥取ロケ地めぐり」。「清水さんに電話をかけます」って、かかってくる。植田君は今もよくテレビに出て食レポをやってる。鳥取情報文化研究所や鳥取とうふちくわ総研の所長をやったりして、有名だ。
ラジオは三年間もやった。あるとき、放送が終わった数年後、鳥取市内から家に帰るのにタクシーを頼んで、運転手と話していた。「あなた、ラジオ番組出とられた人ですね」って言われて、「何でわかるの?」って返したら、「わたしはいつもラジオを聞いとりましたから、声は覚えとります」って。びっくりした、悪いことはできないね。
──ロケ作品の調査はどのような方法でおこなったのでしょうか。
清水:ラジオのときは、鳥取ロケ作品の資料はあまりなかった。それで、調べるために一日中、県立図書館に行って古い新聞を見た。でも、古い新聞のマイクロフィルムを見るのが大変だった。目は疲れるし、だんだん眠たくなる。索引を見たって出て来ないし、何かの関係で日付けを調べ、その日付の記事を見ることを続けた。ある日、違う日付けの記事を見ていたら、知らない片岡千恵蔵のロケの記事があった。早速、儲けたと、一覧に追加した。
──先行研究がない中で、一から調査を進めたんですね。
清水:はい。だけど、これの最終的目標は、やはり、実際に現場に行って、できたらロケに関わった人と話をして、本にすることだった。古い映画だったら関わった人はもういないと思うし、最近だったら良いだろうが、それも探すのが大変だと思う。探しても、その人が本当に喋ってくれるかどうか。他県では、そういう本を出していたので、買って揃えた。
──今ある原稿だけでもすごい情報量で、じゅうぶん一冊の本になりそうな内容ですけどね。
清水:だけど本をつくろうと思ったら、写真を載せるのにすごくお金がかかる。著作権料を配給会社に払わないといけない。ロケ地マップをつくったときも、お金がすごくかかった。自分が持っとるポスターや写真でも、無料なとこもあったけど、高いのは載せるのに一枚三万円程度かかった。
『荒木又右衛門』(池田富保、一九二五年)
──この辺りで、具体的な鳥取ロケ作品の話に移りたいと思います。もしも今後、清水さんが『鳥取映画史』と題された本を書くとしたら、これだけは外せないという重要作品を教えていただけますか。
清水:そうですな、一番は『荒木又右衛門』だ。すごく古く、一九二五年(大正一四年)につくられた、これが鳥取初のロケ映画だ。尾上松之助という大スターの主演千本記念映画だった。これはフィルムが残ってないが、フィルムの断片が、荒木又右衛門の墓がある鳥取市の玄忠寺にある。大体このころの無声映画は、ほとんどフィルムがない。昔はフィルムは消耗品だったそうで、たまったら廃棄されていた。それから、戦争の爆撃で燃えたフィルムが多く、あまり残っていない。
『三朝小唄』(人見吉之助、一九二九年)
清水:偶然、フィルムが見つかったのが一九二九年の『三朝小唄』。鳥取三朝町の役場の倉庫から出てきた。調べてみると、当時はまだ「三朝村」で、村を挙げて大歓迎している。盆のロケで村のみんながエキストラで出ている。盛大な歓迎会までやっている。映画が完成してから、マキノプロタクションが、記念にフィルムを村に寄贈した。そういうことはめったにない。たまたま役場の倉庫から出てきた。東京の国立近代美術館フィルムライブラリーにもないフィルムだったので、「幻の映画」と言われた。
現在は、『三朝小唄』の原本は東京のフィルムライブラリーに寄贈して、三朝町は立命館大学とのコラボでDVDにした。わたしも三朝町からもらっている。新たに現代の弁士・澤登翠の活弁や音楽が付けられている。現在、三朝町の観光協会が昔のヌード小屋を改造して、劇場(三朝「ニューラッキー」)をつくって、そこで『三朝小唄』の上映をやっている。
──歓迎会をやって、フィルムも残していてというのは、『三朝小唄』のロケ当時に清水さんのような方が三朝にいたってことかもしれないですね。
清水:その辺は村長、役場がロケに力を入れたのではないか。三朝町は、最近でも映画『恋谷橋』でロケ支援をやっており、世話好きは、土地柄ではないかと思う。寄贈されたフィルムには映画本編以外に、当時の三朝村の様子を記録した作品もあり、貴重だ。
『日蓮と蒙古大襲来』(渡辺邦男、一九五八年)
清水:鳥取市民が一番ロケを覚えているのは、大映の『日蓮と蒙古大襲来』。これは歴史物の大作だ。鳥取砂丘や東浜海岸でロケを行い、エキストラが千人。やはり、このロケは、鳥取ではちょっと歴史的なことだった。
『絶唱』(西河克己、一九六六年)/『絶唱』(西河克己、一九七五年)
清水:それから、西河克己監督が鳥取で、『絶唱』を二度撮っている。一本は舟木一夫と和泉雅子の主演(一九六六年版)、それから山口百恵と三浦友和の主演(一九七五年版)。鳥取県出身の監督は、あまり、鳥取でロケをやっていない。岡本喜八監督も小谷承靖監督も一本も撮ってないし、西河さんも『絶唱』だけだ。だから、これは貴重な作品だと思う。
──二度の『絶唱』の撮影で、ロケ地はそれぞれ変えているのでしょうか。
清水:舟木一夫のときは、智頭町と鳥取砂丘を撮ったけども、山口百恵のときは鳥取砂丘しか撮ってない。
一九九五年に、とっとり映画祭の第一回を開催したとき、当初は鳥取県の監督三人の映画を一人一本ずつ上映しようかと思った。それで、まず西河監督に会いに東京に行った。西河監督と話していたら、話が進み、西河監督の映画三本(『伊豆の踊子』『絶唱』『霧の旗』)にしようと思って、西河監督に「鳥取へ来ていただけませんか」って言ったら、「行かせてもらう」って。わたしは映画祭は初めてで、お金がなくて心配だった。「すみません、お金は、どのくらい払ったらいいでしょうか」って聞いたら、「要らん、旅費と宿泊だけでいい」って。何といういい監督だと思った。
『砂の器』(野村芳太郎、一九七四年)
清水:それから、やはり、外せないのは『砂の器』だ。鳥取ロケは、鳥取駅プラットホームのとこしかなかったが、それでも、タイトルバックなんかには鳥取砂丘をデザインした絵が出ていた。
わたしの初めての映画出演だ。鳥取で上映したときは映っていたが、テレビ放映のときは出ていなかった。切られたのかなあ、一番横にいたから。後から人に聞いた話によると、ロケ地で最初に上映するときは、エキストラが出ているとこを入れたりするけど、後で切って公開されるというのを、聞いたような気がする(笑)。
『八つ墓村』(野村芳太郎、一九七七年)
清水:大ヒットした『八つ墓村』は、日野町でロケをした。舞台になる多治見邸を四千万円かけてつくって、それをすべて燃やした。ロケ地マップを作成するときに、役場の人に案内してもらって多治見邸の現場跡に行った。すごい山の近くで、山火事になるおそれがあるような場所だった。よく撮影許可がおりたものだ。消防ポンプが待機していたという。今だったら許可は無理だと思う。
それから岡山の県境、山の奥のほうに、「八つ墓明神」として出てきた、お稲荷さんみたいな場所があった。作者の横溝正史が岡山出身だから、この県境でロケをしたのか。多治見邸と八つ墓明神を案内してもらったが、やはり、ロケ隊はプロだと思った。何か出そうな独特の雰囲気をもった山村だったから。しかし、映画を見て、渥美清の金田一耕助が、スクリーンに出たときは、つい笑ってしまった。「寅さん」のイメージが湧いて、どうしても耕助とはイメージが合わなかった。
エピソードとしておもしろかったのは、ものすごい数の見物人だったそうだが、ロケの後は、ゴミだらけだった。また、村のお母さんらが「八つ墓まんじゅう」を売ったという。よく売れたって。たしか、日野のどこかのお菓子屋さんが頼まれてつくったって。そういうエピソードをたくさん集めて本に書きたいな、と思った。誰かが残していかないと、本当に何も残らないので。
──映画に関わるものを収集して発表するという意味では、清水さんはポスター展もやってらっしゃいますよね。
清水:今までにやったのは、「鳥取ゆかりの映画ポスター展」「日本映画ポスター展」「よみがえる昭和の映画ポスター展」「日本映画スチール写真発掘展」「サイン&映画ポスター展」。鳥取でロケをした作品とか、鳥取県出身の監督作品や俳優が主演しているポスターの展示会は何回もやっている。一時、インターネットのヤフーオクションを使って、鳥取ゆかりのポスターを集めていた。日本映画のスチール写真も二千枚ぐらい持っている。
『舞姫』(篠田正浩、一九八九年)
清水:鳥取映画史ということでは、『舞姫』も挙げたい。森鴎外の原作で、篠田正浩監督、郷ひろみ主演。映画の中では全編がドイツ語。びっくりしたのは、仁風閣の正面が映って、字幕に「皇居」と出たこと。二階の謁見の間もシーンとして出てくる。
もう一つびっくりしたのは、郷ひろみがドイツ留学からの帰途、パナマ運河で船から砂漠を見るシーン、そしたら、その砂漠が鳥取砂丘だった。ラクダが七〜八頭、砂漠の上を歩く。ちょっとすごいなと思った。
──余すところなく鳥取を使っているわけですね(笑)。
清水::今、仁風閣で『舞姫』の映画を上映したいと思っている。仁風閣での字幕「皇居」は、知っている人は、必ず笑う。
『蜃気楼の舟』(竹馬靖具、二〇一六年)
──最近の作品では、どういうものが印象に残ってますか。
清水:最近だったら、去年公開になった『蜃気楼の舟』。撮影は二〇一三年二月。四年前に撮った作品が去年公開になったのでびっくりした。
あのときのロケは朝から晩までだった。二月は、まだ寒い。監督もロケ隊も若い人ばかり、砂丘をよく歩くので、ついて回るのが大変だった。でも出演者の田中泯さんはずっとついていた。さすが田中泯だと思ったね。田中さんは快くサインをくれた。
地域映画との関わり──『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』『こほろぎ嬢』
──三つ目の話題として、地域映画について伺いたいと思います。二〇〇〇年代に入って、全国各地でフィルムコミッションが設立されたことを背景として、地方自治体などが独自に企画する映画制作・上映活動が盛んになっていきました。二〇一〇年には、吉本興業が地域映画制作をバックアップする「地域発信型映画」というプロジェクトを立ち上げています。鳥取での映画制作や上映、またフィルムコミッションにも当事者として関わってこられた清水さんが、地域映画と呼ばれるものをどのように捉えておられるか、どのように評価しておられるのかを伺えたらと思います。
清水:そうですね。地域映画に関わったのは、浜野佐知監督の『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』(一九九九年)が最初だった。ロケハンを手伝った。その後に同じく浜野監督が撮った『こほろぎ嬢』(二〇〇六年)もフィルムコミッションのころ。協力できることはするということで、ロケのお手伝いをやった。
地域映画の問題点──『梨の花は春の雪』『銀色の雨』
清水:鳥取県西部のほうでは、米子市が中心になってつくった『梨の花は春の雪』(土屋哲彦、二〇〇七年)という市民映画がある。松本薫さんが原作で、市民参加による手づくりの映画として成功した例だと思う。しかし、一発勝負みたいな感じだった。完成して良かった良かったという感じで。話を聞いたら、米子市の予算を大幅に超過したということで、やはり、それで次ができなかったのだろう。
その後は『銀色の雨』(鈴井貴之、二〇〇九年)。原作が浅田次郎の短編小説で、本当は大阪が舞台。わたしがちょうど、県庁の観光課にフィルムコミッションの関係で行っていたら、突然制作の関係の人たちが来た。『銀色の雨』という映画を撮るために、米子の飲み屋街、朝日町を舞台にするから二千万円の寄附をしてもらえないだろうかって。アポなしの飛び込みで、よく来たな、という感じ。
──めちゃくちゃな話ですね。
清水:ロケだけのことだし、原作の舞台も違うし、鳥取の監督というわけでないのに、そんな無駄なことはやめたほうがいい、と助言した。結局、県は、お金は出さないが、人とか撮影には協力するということになった。鳥取県西部総合事務所に『銀色の雨』担当の人を置いて協力をした。米子駅のシーンでは、平井知事が駅員役で出演している(笑)。
映画のプロデューサーがわたしのとこにメールをしてきて、主人公の部屋に『ダンス・ウィズ・ウルブス』の映画ポスターを貼りたいので、送ってほしい、と言ってきた。それで映画館・鳥取シネマに行って、探してもらってね。二枚見つかったから一枚をわたしがもらって、一枚をロケ隊に送った。
でも、この映画はヒットしなかった。わたしも見たが、あまり好きな映画ではなかった。大体、原作は大阪なのに、なぜ米子なのか、大阪のロケのほうがよかったのではないかと思った。
『父の暦』の映画化構想
清水:それから、谷口ジローさんの『父の暦』っていうマンガ単行本がある。十年ぐらい前、わたしがまず読んで、あっと思った。本当に小津安二郎みたいな感じで、これは映画になると思って、小谷監督とか撮影の田中一成さんとか、岡本喜八監督夫人・岡本みね子さんとか、そういう東京の映画関係の人に映画化したいと、本と映画化の通知文を送った。それで、翌年に東京でロケ地フェアがあって、わたしが東京に行った。そしたら本を送った連中が飲み会を設けてくれた。飲み会では、『父の暦』を映画化しようと大そう盛り上がった。その場で監督は小谷さん、カメラは田中一成さんと決まった。
まずは役割を決めた。製作・撮影関係は東京側、支援関係は鳥取側ということになった。鳥取に帰ってきてから市役所に行って、鳥取市とフィルムコミッションと両方でやろうということで、市の文化芸術推進課が支援を引き受けてくれて、予算をつけてくれた。関連企画として、まちなか名画劇場という映画上映会に三十万円、『父の暦』制作フォーラムには、一五〇万円の予算をつけてくれた。シナリオもできて、キャストもほとんど決まって、文化庁の助成金も承認された。
だけど、蓋をあけると、メインとなる製作会社が決まらなかった。東宝とか小学館とかが全然乗ってこなくて失敗した。県や市のほうは、正式な製作委員会ができた後に、助成金を出すことで了承済み。同じ谷口ジロー原作の日本の映画化作品(『遥かな町へ』)に、県や倉吉市が支援することが先に決まっていた関係もあって、なかなか進まなかった。その後、鳥取出身の映画製作会社社長が、うちが製作します、と参加したが、結局できなかった。大口スポンサーが集まらなかったのだ。
──保留中ではあっても、企画自体は今も続いているんですか?
清水:去年、境港市で、ある上映会があったとき、新聞記事で小谷監督が『父の暦』映画化のことをしゃべっていた。だから、今も続いていると思う。東京の人が集まって、『父の暦』東京プロジェクトチームというのができていた。わたしもそれに入っていた。東京に行って打ち合わせをしたが、やはり、スポンサーの話が主だった。わたしが映画化の発起人だから、とっとりフィルムコミッションが製作やプロデューサーになってくれ、との話があったが、金のないフィルムコミッションには無理なことだった。製作費が二億八千万円で、その半分が広告費だという。実質、一億四千万円で映画をつくるのだ。小谷監督は倉吉出身で、東宝時代はものすごい花形監督だった。『若大将』シリーズを四本も撮っている。華々しかったから、あまり、変な映画はつくりたくないようだ。それで、全国公開にこだわった。
一時は、そんな大金のかかる映画をつくらないで、一億円以内ぐらいでつくれば、と監督に言ったことがある。谷口ジローさんはフランスで「漫画の小津安二郎」って言われているのだから、フランスで映画賞をとって、日本に凱旋すれば、日本でもヒットするのでは、と。小谷監督もだいぶ傾いていた。でも、一億円でも鳥取だけでは集めることができない。東京でメインの製作会社ができて、鳥取市や県が助成したら、商工会なども出してくると思うのだが。鳥取市が舞台だから、鳥取市が一番元気を出さないといけないのだが。
地域と映画の理想的関係
──地域映画は、どれぐらいの規模でつくられることが理想的だと思いますか?
清水:難しいな。五千万程度かな。製作費は映画によって違ってくるので、よくわからない。元県職員で、前の県立図書館長の森本良和さんが、自分のお金、四〇万円だけで幕末ものの映画をつくっている。時代劇で、一番最初の映画を見に行ったが、出演者が二人、お寺で喋っているだけ。合戦があるときは絵巻物みたいな写真を映して説明が入る。「果たしてこれが映画か」と問うと、森本さんは、「いや、わたしは映画というよりも幕末の鳥取藩を記録で残しておきたいのだ」、と言っていた。だから、再現ドラマ的な感じがした。森本監督は、「補助金は要らない、補助金をもらったら自由にできない」と言っていた。だから自分でお金を出している。俳優さんらは全部素人で、ボランティアだ。
──ぜひ作品を見てみたいです。上映会も自分たちでやっているんですか?
清水:やっている。さざんか会館で朝から晩まで、五百円でよく上映会を開催している。鳥取藩が尊王攘夷で、幕末には薩長と同じぐらいの力があったが、現在では、忘れられているから、それを訴えたいということで(『維新の魁~鳥取藩飛翔~』シリーズ、二〇一二年〜)。河田景与(佐久馬)というのが、鳥取藩の尊王攘夷派のトップで、初代の鳥取県知事だ。森本さんは、最近は違う映画も撮り出して、小泉八雲の鳥取の幽霊の話(『とっとりの幽霊布団』、二〇一五年)とか、自分が糖尿病で日赤に入院したときの映画(『僕は立派な糖尿病?』、二〇一五年)も撮った。
──今日のお話の初めのほうで、観光や地域振興のためではなく、文化のためにフィルムコミッションを立ち上げたのだと伺いました。その場合、鳥取でロケがおこなわれた映画や地域映画が、その土地でどのように受容され、広まっていくのが理想だと思いますか?
清水:本当は、鳥取でロケをした映画は、一番最初に鳥取で上映してほしい。だけど、鳥取県は日本で一番上映される映画が少ない県なので、ロケしてもほとんど上映されることがない。ロケしたのに上映されない、これは文化ではない、今、鳥取コミュニティシネマで鳥取未公開の映画を上映をしているのも、やっぱり「文化」っていうことを考えてやっているのだから。
──なるほど。鳥取ロケをして作品がつくられて終わりではなく、その作品がその場所で上映されて、観客が見て、というところまで行って初めてワンサイクルということなんですね。
清水:そうです。だから、仁風閣で『舞姫』の上映をしたいというのは、そういうことなのです。『絶唱』も二本、わたしのところで自主上映をやったから。
──近年の「地域映画」という形態に限らず、今後の地域と映画の関係性を考えていく上で重要なお話をたくさん伺うことができました。本日は長い時間、ありがとうございました。